アンカレッヂまで

<日の出>

 離陸して5時間程經つた。氣がつくと窓の外は薄明るくなつて來てゐる。日本ではまだ夜が明けてゐないであらう。余りに早い朝に少々とまどひを感じたが、明けてしまふのだから仕方がない。そのうち、誰かが、わあ、きれい、と言ひ出したから、小生も身を乘り出して、窓際に座つてゐる者の頭越しに、窓の外を見る。どうやら太陽は飛行機の前方にあるらしく、こちらからは見えないが、その輝きが、邊り一面の雲を何とも綺麗な朱色に染め抜いてゐる。かうなると、もつとじつくり見てゐたい、といふ思ひが湧上がり、席を移動してしまつた事を後悔してしまふ。窓際でゆつくりと見たいのだが、誰一人窓から離れようとしない。當然だ。一番後ろのトイレ付近に窓があつたのを思ひ出し、小生はそこへ行つて、外をぼんやりと眺めた。それは、小生のやうな怠慢な者が見ても良いものなのだらうか、と思つてしまふくらゐ美しく、神秘的なものさへ感じさせる。

 しばらくすると瓜生君が、他のお客樣の迷惑になるだらうから窓のブラインドを閉めろと、聲を掛け歩いてゐる。皆、不滿あり氣に彼の言ふ通りにしたのだが、彼だつて、本當だつたら、もつとゆつくり見てゐたかつたのだらう。彼はやはり大した男であると思ふ。

<水が飲めない>

 夜が明けたのだから、今日は28日なのだらうと思つてゐたら、まだ27日である。日付變更線の向かうだから、といふ理屈は勿論解つてゐるが、それにしても變な氣分である。

 他のお客もぼつぼつ起き始め、スチュワーデスさんも姿を現はした。朝食の前に、ハッカの匂ひのするタオルで顏を拭く。湯氣が鼻を抜け、なるほどこれはすつきりする。朝食の方は、割合質素なものであつたが、もの珍しさに全部を平らげてしまつた。スチュワーデスさんが、飲み物は如何ですか、と言つてゐるやうなので「 Water please 」と注文した。昨日から(今日になるのか?)、ジュースやらウヰスキイばかりで、水を飲んでゐなかつたから、水が欲しかつたのであるが、驚いた事に返事は「 No 何とかすつたくれ」であつた。察するに、飲水を大量には積込んでゐない爲、薬を飲む、或いは水割りを作る時ぐらゐしか使へないのだらう。日本とヨオロッパでは水の扱ひがまるで違ふ、といふ事は、前もつて頭では判つてはゐたが、實際にかういふ事態になつてみて、初めてほんの少し感ずる事が出來たのである。やはり、頭で理解する事と、感ずるといふ事を混同してはならないのだ。ないと判つて余計に飲みたくなつてしまつた。

<アンカレッヂ着陸>

 朝食を終へてしばらくしたところで、「間もなくアンカレッヂ國際空港に到着致します。これより旋回飛行に入りますので、座席へお戻りください」とか言ってゐるらしいアナウンスがあり、さうか、もう直ぐかと思ひながら窓の外の景色を眺めた。余りにも広過ぎて、これは、海か、陸か、はたまた氷なのか、まるで見分けの付かないやうな景色が眼下に広がつてゐる。飛行機はぐんぐん高度を下げ、遂にネズミ色の滑走路へ車輪を降ろす。やがて、空港の建物が眼に入ると、それは妙にちつぽけで滑稽なものに映つてしまつた。

<アラスカの水を飲む>

 アメリカ合衆國はアラスカ州にあるアンカレッヂは、北極に近い。大方、トナカイや巨大な熊がうようよしてゐるやうな所であらう。このアンカレッヂで、飛行機の給油、整備、清掃、機内食の積み込み等を行ふことになつてゐて、その間我々乘客は一旦飛行機を降りて、空港内のロビーで待機する。言はば、ここは休憩所のやうなものである。

 各々貴重品を持つて、空港内のトランジットルームに入ると、そこで「トランジットカード」なるものを受取る。こいつを無くしちまふと、飛行機に戻れない。添乘員さんから、「ここで待機しゐてもよいし、ロビーの方で買ひ物するのもよし、又、ベランダに出られるから、表の空氣を吸つて來るのもよいでせう」と言はれ、一行は蜘蛛の子を散らすかのやうに、各自の好む場所へと散つて行つた。

 アラスカの水は綺麗だと聽いてゐたから、小生は早速水を飲みにロビーの方へ向かつた。あり難い事に冷水機が完備されてゐて、水は何の心配もなく、たらふく飲む事が出來る。が、やはりいざ飲む、といふ時になると、本當に大丈夫なのか、後で腹を壞すんぢやないか、などと心配が先に立つてしまひ、思ふ存分飲む事が出來ない。日本のカルキ臭い水の方が安心して飲めるといふのは不思議である。

<アラスカの空氣を吸ふ>

 飛行機に座りつぱなしでゐたから、少し運動がしたいし、表の空氣も吸ひたい。飛行機でもロビーでも暖房でぬくぬくとしてゐるばかりだから、ここは一丁表に出て、アラスカの冷えた空氣でも吸つてみるかと思ひ、ベランダへと足を運んだ。2階だか、3階だかに上がり、ベランダへ出るドアを開けてみた。途端に嚴しい冷たさが小生を襲ふ。元々寒がりな小生は、これはたまらんとばかりに、コートのホックを一番上まで閉める。御陰で後輩の宮奥真理女史(高3 パーカッション擔當)には、先輩中國人みたいな恰好してる、と笑はれてしまふ。

 天氣は快晴。空氣は冷え切つてゐるが、非常に澄んでゐるやうにも感ずる。やはり、外の空氣はいい。空港の周りにはずつと平野が續いてゐて、遙か向かうには山脈が延びてゐる。一つだけ飛び抜けて高い山が眼に入つたが、あれはランゲル山だつたのであらうか、マッキンレー山だつたのであらうか。およそ怠慢な旅行者だつた小生は、事前の下調べなどは勿論せず、困つた事に見てゐるものが何なのかさへ訊かうとしない。下調べなどしなくても、旅先で出會ふよきものは、歸國後もずつと心に殘つてゐるだらうから、後で調べりやいいだらう、などと實に氣樂なものであつたから、今になつて、あれは何といふ山だつたのかなどは思ひ出せるはずがないのである。勿論、後で調べてみても、よく判らないものである。山の先端は鉤のやうな尖りを見せ、これに触つたら痛いだらうな、などと思つた。

 カメラを持つて來てゐたから、記念寫眞でも撮らうかと思つたけれども、寒くてポケットから手が出せない。仕樣がないから、宮奥女史ら數人に撮つてもらふ事にする。歸國後出來上がつた寫眞を見せてもらつたが、小生は本當に寒さうな顏をしてゐる。

<ロビーを徘徊>

 身體が冷えてしまつたので、何か温かいものでも飲んで身體を温めようとロビーへ戻つた。ロビーの賣店には、日本で言ふところの「立喰ひ」の店が何軒かある。日本人の旅行客が多い爲か、「うどん」といふのれんを掲げた店もあり、非常に興味深かつたが、小生は別に腹が減つてゐる譯ではないので、結局はハンバーガー等の輕食を扱ふ店でホットチョコレートを買ふ。日本を發つ前に、父の知り合ひの岡田喜美子さんから、米ドルを餞別に戴いてゐたので、ここであり難く使はせて貰つた。

 ホットチョコレート片手にベランダへ出て、釣錢の二五セント銀貨で、備へ付けの双眼鏡を覗いたりしてゐたが、いい加減寒くなつた。集合時間まではまだ大分あるので、再びロビーを徘徊する。各國の土産物が置いてある店や、御當地アラスカの民藝品等を置いてゐる店もある。購買層は、どうやら日本人を中心としてゐるらしい。その爲か店員の中には日本人の姿も多く見受けられた。又、日本の某航空會社の係員が背広を着たポン引きの如く立つてゐて、「ご利用の航空會社は何處ですか」と聲をかけて來る。これは一體何であらうかと横の看板を見ると、この航空會社の利用客のみ、無料で記念撮影をしてくれるやうな事が書いてある。寫眞を撮るのは別に構はないが、ロビーで、いらつしやいませと客を引いてゐるのはここだけである。何だか歌舞伎町の客引きを思ひ出してしまひ、正直な處、情けなさを感じてしまつた。しかしながら、通りかかる日本人客全てに聲をかけてゐるやうで、これもまた大變な仕事である。

 さて小生は、土産物屋の中でも最も大きいと思はれる店の中に入り、そこで各國のブランド品を眺める。パリではあれを買はうとか、土産には何を買つて行つてやらうとか、この後どういふ事態に陷るかも知らずに、ブランド品に包まれて歸朝する自分を想像し、一人ニヤニヤしてゐる。

 そんな具合にウロウロしてゐたら、何時の間にか飛行機へ戻る時刻になつてしまつてゐて、もう一度水を飲まうと思つてゐた事も忘れ、甘過ぎたホットチョコレートの味を口に殘したまま、機内へ戻つたのであつた。