リハーサルと樂器選定

<ホテル出發、リハーサル>

 午後四時頃ホテルを出發する。今回の演奏旅行の爲にこしらへた、お揃ひの紺色の制服を着て、今夜の演奏會會場である日本文化會館へ、今度はバスで向かふ。會場に着いたら輕くリハーサルをして、十七時半には本番であるが、正直な處、まだ氣が入つてゐない。本當にこれから演奏會をやるのだらうかと、どうもこれからやる事に對して精神が集中しない。從つて、緊張感などはまるでない。をかしな話であるが、あまりにも實感の湧かぬ自分に對して、これでいい演奏が出來るのかといふ焦りを感じてしまふ。さう感じたのは、小生だけではないやうで、車内でも、會館に着いてからも、他の團員からあまりピリピリとした緊張は感じられず、私達本當にこれから演奏會をするのでせうかね、どうも信じられないですね、といつた言葉をよく耳にした。やはり、演奏旅行とは言つても、旅行の方を主に感じてしまつてゐたから、かういふ氣分になつたのであらうか。それとも、ドイツにおける新鮮な刺激が、感覺を少しばかり麻痺させてしまったのであらうか。

 會館に到着すると、直ぐリハーサルであつた。大石先生の指示される、各曲の特に重要と思はれる處を中心に練習し、全曲を通して演奏するといふ事はなかつた。演奏會本番に備へて、體力を殘して置かなくてはならないからである。

 リハーサル終了後、大石先生に樂器を買ひたいのですけれども何かよい方法はないでせうか、と尋ねると、先生は少々驚いた表情をしてから、さういふことなら、地元で活躍されてゐる稲川さんに相談してみてはどうか、と言はれた。

<樂器購入なるか?>

 忙しさうに書類に眼を通してゐた稲川さんに、小生が樂器を買いたい旨を申し上げると、この時間ぢやあもう店も閉まつてゐるから無理だなあ、といふ返事であつた。小生は、やはりさうですかと、がつくりしてしまふ。それでもしばらくの間稲川さんは手段を考へてをられるやうであつたが、やがて突然何かをひらめいたやうな顏つきになつた。何でも、稲川さんがお弟子さんらの樂器購入の際、いつも紹介してゐらつしやるといふ樂器會社の社長さんが、今夜の演奏會を聽きに來て下さる事になつてゐるので、一つその方に相談してみませうか、といふ事であつた。その會社が、『マイスター・アントン(MEISTER ANTON) 』といふ會社だと聽いて、小生はびつくりした。アントン社は、ドイツ式のテューバを中心に製造販賣をしてゐて、日本でも名器として名が高く、輸入される器種は一臺百萬圓を下らない。無論テューバ吹きなら知らぬ者はゐないくらゐである。

 稲川さんに會社の方へ電話を掛けて頂くと、社長さんは一旦御自宅に戻られてからこちらにゐらつしやる、といふ事であつたので、續けて社長さんの御自宅の方に電話して頂く。社長さんは御自宅にゐらした。稲川さんは、實はかくかくしかじかで、樂器を購入したいといふ日本人學生がゐる、ついてはお宅の會社の樂器を紹介したいのであるが、如何なものだらうか、一つ詳しく教へて貰ひたいのだが、とでも話されてゐるやうであつたが、何せドイツ語なのでよく判りはしない。完全に稲川さん任せである。小生の豫算や樂器の仕樣などの希望を細かく聽かれた上で、バリトンとテノールホルンを一臺づつ持つて行くから、實際に吹いてみて氣に入つたら買つて下さい、といふ、この上もなく嬉しい御返事を社長さんから戴いた。

<樂器は女性と同じ!?>

 さて、テノールホルンとバリトンをそれぞれ一本ずつ持って來て頂ける事になつたのであるが、どうしても膽心の豫算から大分足が出ることが分つた。ケース代を含めてテノールが1,630マルク、バリトンは2,265マルクであつた。小生の當初の豫算である1,000マルク以内となると、お勸めできる樂器がない、と社長さんが言ふので、豫算はオーバーするけれども、折角の機會だから、とにかく持つてきてもらはうといふ次第になつた。ロビーでこのやりとりを聽かれてゐた大石先生が、十萬圓ぐらゐだつたら貸してやるよと笑つて言はれたが、とんでもない、先生にそんな大金を簡單にお借りする譯にはいかない。しかし、ない袖は振れないのだ。

 先生は一緒にゐた團員とソファーでおくつろぎの樣子であられたが、突然、「樂器ってのは女性とおんなじだからなあ、一眼で好きになつたり、吹いてみてなほ欲しくなつたりする、さういふ出會ひもあるもんだよ」と、獨り言のやうに言はれた。聞いてゐた小生や、中高生の團員達は、先生からそのやうな言葉を聞いたのは勿論初めてで少々驚いたが、さういふものかと、皆吹き出してしまつた。

<持つべきものは友>

 まだ何人か殘つて練習してゐるホールに行つてみた。瓜生君や八尋君に相談してみようと思つたのである。ホールの一番後ろの客席で瓜生君が練習してゐたので、小生はその隣に腰掛けた。小生が來たのに氣づいた彼は、ラッパを口から離すと、「ああ全然吹けねえよ」と言ふ。これは彼の口癖である。「實はなあ」と切り出した小生の表情にいつもと違ふものを感じたのか、彼も練習を中斷し、どれ話を聽かうか、といふ顏つきになつた。「實はなあ、お金を貸してもらへるだらうか。」 ああさうか、いいよ、と彼は尻のポケットから財布を出さうとした。いやいや、さうぢやなくて、かくかくしかじかで少々の金額ぢやあないのだよ、どうであらうか、とドキドキしながら尋ねる。彼は少し考へてから、ああ、さうか、それならいいよ、ドイツでは別に物を買ふ豫定もないから、使つてくれ、と言ふ。何ともあり難い返事であつた。どうもありがたう、ありがたう。どう言つて感謝すればよいものか、ただありがたう、とし言つて頭を下げることしか出來なかつた。八尋君にも相談にのつて貰つたが、彼も快く引き受けてくれた。彼らも本當はお金を使ふ事があつたのであらうが、小生の爲に快く御協力を頂いたといふ事は、本當に感謝しても感謝しつくせない事であつたた。

 さて、後は樂器を持つた社長さんの到着を待つばかりであつた。

<ドイツの夕暮れ>

 練習終了後は、控室へ戻り、用意されてゐた夕食替はりの握り飯を頬張るなどして、開演を待つ。部屋にじつとしてゐても詰まらぬので、表へ出る。

 空は、今にもパラパラと小雨が降つて來さうなくらゐどんよりとしてゐて、公園には夕暮れ前の霧がうつすらかかつてゐる。もう薄暗くなつてきた。通りで車が通り過ぎる音が、唸にも似た低い響きで少し聽こえるほか、耳を澄ますと、小鳥のさへづりか遠くに聽こえる。靜けさとは、正にかういふ状態を言ふのであらう。自然小生の足取りもゆつくりになる。靜けさの中で少しづつ日が暮れていく。

 演奏會場の一つ隣の棟は、展示會場か何かになつてゐるらしく、こちらの一階ロビーに喫茶室がある。行つてみると、委員の方や團員が、何をするでもなく、コーヒーか何かをすすりながら、ぼう、として座つてゐる。小生もソファーに腰を下ろし、ぼう、としてそこにゐた。

<アントン社の社長さん>

 チューニングが始まる少し前に、先のアントン社の社長さんが樂器を抱えてゐらつしやつた。

 小生が想像してゐたよりも、ずつとお若い社長さんで、お歳はまだ三十代の後半くらゐに思へる。稲川さんに紹介して頂いた後、英語で自己紹介をすると、社長さんは握手を求めてこられた。かういふ習慣に不慣れな小生はタイミング遲れて右手を出した。

 社長さんは稲川さんと少し話をしてから、直ぐケースを開けて二臺の樂器を見せて下さつた。二臺とも新品獨特の輝きを放つてゐる。マウスピースはケースに入つてゐるものを使つて構ひませんから、どうぞゆつくり吹いて選んで下さい、と言はれたので、早速控室に樂器を運込み、わづかな時間ながら試奏させて貰つた。小生が見慣れぬ樂器を持つてきたので、皆、なんだなんだと近寄つて來る。瓜生君と八尋君も、岡山が欲しがってゐる樂器とは一體どんなやつだとばかりに側へ來た。

 備付のマウスピースで二臺を試奏してみると、全體的に豊かな音色を奏でるのは、テノールホルンの方で、バリトンの方は今一つ音に伸びがないやうに思つた。しかし、装備されてゐるロータリーの數が、バリトンの方が一つ多い。その爲にバリトンはテノールよりも低い音を出すことが出來る。音色を選ぶが機能を選ぶか、文字通り二者選擇である。ただ、一般に外國製の樂器といふものは、名器であればあるほど、簡單には鳴らないもので、一年二年しつかり吹き込んでからやうやくいい音がしてくる、とどこかで聞いたやうな氣もする。瓜生君も、バリトンの方は抜けのよい音をしてゐないけれど自分のラッパも(外國製で)なかなか鳴らなかつたからなあ、と言ふので、時間もあまりない事であるし、とりあへずバリトンに決めておいて、演奏會の終了後、今度はバリトンの方を中心に試奏させて貰はうと思つた。