「武力制壓」と「平和」


 ユーゴ空爆のニュースが毎日報道されてゐる。

 皆、忘れてしまったかのやうであるが、ふと、ペルーの日本大使公邸人質事件を思ひ出した。自らの要求を飲むまでは人質を解放しないといふ無法グループに對し、連日交渉が續いた。それと平行して武力制壓への準備が丹念になされたやうであった。連日の報道に、私は不安であった。如何にあるが正しいのか、私には判らず、もどかしかった。果たしてそれは自らが傍觀者と化してしまってゐたといふことなのだらうか。

 たうとう武力行使が決行され、人質が解放された。部隊の突入が報じられると、私はテレビの畫面に釘付けになった。一體どういふ結果になってしまふのかと、とにかく畫面に食ひ入ってゐた。人質の解放を聽き、安堵の氣持ちがこみ上げるとともに、グループ全員の射殺といふ報道に沈んだ氣持ちにもなった。

 私は、その後の報道に驚いた。「部隊は既に降伏した犯人をも射殺した」、「人質の内部にグループが生じ、いがみ合ってゐた」、「トンネルを掘った者達は國葬扱ひにされなかった」等々、作戰は一見上手く行ったやうだが、實はかうかうであったといふ報道ばかりが眼に付いたのである。ここで、それらの個々の問題を云々しはしない。もっと根本的な問題が殆ど口に上がらなかったことを私は問題としたい。それは「平和」とは何か、といふことに對する態度についてである。

 「平和解決」ではなく「武力制壓」であった、と報道される。それでは「武力制壓」は、「平和」をもたらさないのであらうか。私は言葉の遊びをしてゐるのではない。遊んでゐるのは、寧ろかういふ言葉をしたり顏で使ふ者達の方である。犯人の無法なる要求を飲んで、超法規的措置をとることが「平和」をもたらすのだらうか。折衷案(殘念ながら具體的には私には何も浮かばなかったが)にて雙方納得のうちに人質解放といふのが、我國の大方の希ひであったと思はれるが、これが果たして「平和」をもたらすのか。犯人側の要求を受け入れず、あくまで武力制壓にて解決するといふことが「平和」をもたらすのか。そもそも「平和」とは何なのか。ペルーの事件以來、私はずっと、この大問題にぶつかったままである。しかし、報道は、それを一緒に考へてくれはしなかった。殆どは「武力制壓」に對する批判めいた報道ばかりである。彼らは「平和」とは何か、如何にも知ってゐるかのやうだった。そして彼らにとっては、「武力制壓」と「平和」は相反するものであるといふ前提が、もはや抜き難くなってしまってゐるものと、私には感じられた。

 すると直ぐ、「人が人を殺すとといふことが、どうして平和であらうか、そんなはずはない」と問ひたくなるであらう。しかし、さういふ問ひの前に、「平和」といふ言葉を如何に都合良く使ってゐるかを問ひ直すべきではないか。

 人質の自由を取り戻し、そしてペルーの治安を維持したのは、他ならぬ武力制壓によってであった。果たしてこれは「平和」を取り戻したことにはならないのか。私はグループ全員の射殺に沈んだ心持ちにもなったが、もしこの状態を「平和」と言ふのであるなら、少なくともペルーの事件に關しては、「武力制壓」と「平和」が相反するものでは決して無いはずである。

 クラウゼヴィッツの『戰爭論』といふ書には、「戰爭とは一種のゲヴァルト(暴力)行爲であり、その旨とするところは相手に我が方の意志を強要するにある」とあるのださうである。戰爭する相手がゐるといふことは、雙方が意志を強要してゐるといふことにならうか。この言葉を讀む限りでは、クラウゼヴィッツは戰爭といふ行爲に對して、善惡の觀念を持ち込んでゐない。「戰爭」とは、あくまで問題解決の一つの手段として捉へるべきことを、冷静に強調してゐるやうに感ずる。

 ペルーに於ける武力制壓も、クラウゼヴィッツの論理からは外れてゐないと思はれる。「戰爭」と「平和」、「武力制壓」と「平和」、いづれも相反するものとは言ひ難い。方や手段であり、方や姿といふべきではあるまいか。

 小林秀雄氏は『戰爭について』といふ文章を書き遺してゐる。

「戰爭は人生の大きな矛盾だ。この矛盾を知らないものはない。平和を思ひ描かずに人間にどんな戰ひも出來るものではない。(中略)最も勇敢に戰ひ、一番戰爭の何んたるかを知ってゐる戰場にゐる人々は、又一番平和の何んたるかを痛感してゐる筈だ。」

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 氏の「平和の何んたるかを痛感してゐる」といふ言葉に心を留めたい。痛感無きところに、賢しらな、したり顏の言論が生ずるのではあるまいか。この文章を讀んだのは、いつだったか。ペルーの事件後、ある寫眞を觀た私は、ただただ、涙が溢れ出てきた。この自分の感動を辿ってゐるうちに、氏の文章が思ひ出された。最後にその寫眞を紹介しておきたい。


「公邸突入で殉職したバレル大佐の葬儀の途中、母親、マリーナさんに支へられながらも涙を抑えきれない長女のバレリアさん。(平成九年四月二六日、産經新聞朝刊 寫眞はロイター)」 

 −腰折れ數首−

廣ごれる青空の下國護(も)りき君の別れに集ふ家族らは

背の君を遙かに眺めつ凛として子を抱きし妻のかなしみよいかに

母君に支へられつつ眞直ぐに君を見つめて涙拭ふ子は

君の姿思はざらめや家族らのかなしくもまたすがしき姿に