第三節 哲學者時代

   一、哲學者としての第一歩

   二、イェーナ時代

   三、フィヒテに反對する人々

   四、ベルリン時代

 一、哲學者としての第一歩

  カント訪問と處女作の出版

 一七九一年、フィヒテは家庭教師として、ワルシャワへ向つたが、住込み先の夫人との折合ひが惡く、間もなく辭めてしまつた。フィヒテは、ワルシャワを出て直ぐ、ケーニヒスベルクに住むカントを訪ねる。念願のカントとの面會は實現したものの、フィヒテはこの時カントに全く取合つて貰へなかつた。そこでフィヒテは、論文によつてカントとの面識を得ようと考へ、カント自身が未だ發表してゐない宗教哲學の問題を扱ふ『あらゆる啓示の批判の試み』を、わづか五週間のうちに書き上げて、これをカントに送つた。カントはこの論文からフィヒテに關心を持ち、好意的になつたらしく、やうやくフィヒテはカントと面識を得る事が出來たのである。因みにカントはこの時もう六十七歳の老人であつた。

 フィヒテはカントの著書に啓發されて、哲學の從たる志を立てたのであるが、哲學者としての道も、實はこの時のカントとの出會ひから開かれて行つたのである。

 フィヒテは、先のチューリヒへも、ワルシャワへも、いづれも從歩にて赴かねばならなかつた程貧乏であつた。そして家庭教師を辞めてしまつてゐた當時の生活はさらに貧困を極めてゐた。フィヒテはさんざん惱んだ末、尊敬するカントに、無禮とは知りながら借金を申し込んだ。付き合ひ始めて間もない、年少の男からの借金の申し出であつたが、カントはこの若い哲學者のうへを思ひ、借金の申し出は斷はつておいて、その代はりに先のフィヒテの論文を出版する事を勸め、力を貸したのである。

 かうして哲學者としてのフィヒテの最初の論文は、カントの盡力によつて一七九二年に出版され、日の目を見るに至つたのである。ところが出版社の手落ちからか、故意からか、この論文には著者の名前が記載されてゐなかつた。その爲出版當初、この論文の取り扱つてゐる内容から、カントの書であるとの噂が人々の間に廣まつてしまひ、カント自身がフィヒテの書であるとの言明をしなければならなくなつた、といふエピソードも遺つてゐる。ともかくかうした經緯を以て、フィヒテの處女作は一七九二年の出版以降、世に知られて行き、フィヒテの哲學者としての名前もまた、非常な宣傳效果を伴つて世の人々に知れ渡つて行つたのである。

 二、イェーナ時代

  ヨハンナとの結婚
  研究者としての日々

 一七九一年から、フィヒテはカントの紹介で、二年程家庭教師をしてゐたが、一七九三年に、チューリヒへ戻り、やうやくヨハンナと結婚する事が出來た。ここでフィヒテは一年程平穏な生活をしてゐたが、一七九四年にヴァイマール政府からの勸めに應じ、イェーナ大學へ助教授として赴いた。一七八〇年から實に十四年間も續けた家庭教師生活もかうして終はりを告げ、三十二歳にしてやうやく大學の研究者としての定職を得る事が出來たのである。

 イェーナ大學でフィヒテは、學内の講義、公開講義、著作活動とに全力を注いだ。後に出版されるに至つた『學者の使命』などの公開講義では、講堂から聽衆があふれ、その名聲は前任者であつたラインホルトを凌いだとさへ言はれてゐる。また著作としては、一七九四年に『知識學の概念について』、一七九四年から翌年に掛けて、主著とされてゐる『全知識學の基礎』を出版した他、赴任してから一七九九年までのわづか五年の間に、實に五冊の著書を出版、多數の論文を書き上げるのである。

 イェーナ大學に赴任してからの、フィヒテのかうした精力的な仕事振りを辿つてゐると、定職を得たからと言つて安心するどころか、長い生活の苦勞の中で「人は如何に生きればよいのか」と模索し續けてきた問ひを、思ふ存分學問にぶつけ、心血を注いで行く、さういふフィヒテの實に力強い姿が浮かび上つて來る思ひがする。

 三、フィヒテに反對する人々

  學生結社の解體
  所謂「無神論論爭」

 かうしたフィヒテの學問に對する眞摯なる姿勢は、時には非常に激しく嚴しい姿となつて現はれてゐたやうである。フィヒテは輕々と自分の信念を自分自身で曲げてしまふやうな事は決してせず、その爲同僚、學生に對しても、決して自分を隠すといふ事をしなかつた。どう考へてもこれはをかしいと思ふ事に關しては決して妥協せず、徹底的に相手を説得し、自分の信念を貫き通さうとしてゐたやうで、さういふフィヒテに對して、反感を持つ者も少なくはなかつたやうである。實際にフィヒテは、さういふ風な反感を持つた人達によつてあらぬ疑ひをかけられ、苦しめられたのである。

 フィヒテは、當時存在してゐた粗暴で獨善的、排他的な學生結社の學生達に對して、何とかして學生の本分である學問の存在に氣付かせなければならないと考へて、大學の講義に全力を盡してゐた。それは、我々は何としてでも、學生の學ぶべき場所にて學ぶべき事を傳へて行かねばならない、といふ學者としての重い使命を背負つての行動であつた。その結果、フィヒテの學問に對する眞劍で情熱的な講義を聽いてゐた學生達は、自分達の組んでゐた結社を自發的に解散して行つたのであつた。ところが、或る結社の學生だけが、最初からフィヒテの話を聽かうともせず、次々に學生を更生させて行くフィヒテに對して怨みを募らせて行つたのである。一七九五年の正月には、フィヒテの家が夜毎その學生達に襲はれ、フィヒテ夫妻はイェーナからオスマンテットといふ村に一時引越さなければならなくなつた。

 一方、『哲學雜誌』に掲載されたフィヒテの宗教に關する論文を槍玉に擧げての、所謂「無神論論爭」も引起こされた。これも心ない人々による、フィヒテに對しての中傷から始まつたのであつた。そもそもこの論爭の發端は、フィヒテの弟子が、人間とつて必要なのは道徳的行爲であり、その爲には神に對する信仰さへ必要なくなるといふ主旨で宗教に關する論文を書き、それをフィヒテらの編輯する『哲學雜誌』へ寄稿したといふ事に始まつたのであつた。フィヒテはその論が餘りにも極端であると考へて、道徳的實踐の重要さに關しては同意を示しながらも、その道徳的行爲とは、神への信仰と堅く結びついてゐるものである、といふ事を示すフィヒテ自身の論文を、先の弟子の論文と併せて『哲學雜誌』に掲載したのであつた。ところが、普段からフィヒテの活發的な言動を面白くないと思つてゐた者達が、フィヒテの哲學は無神論を辯護してゐる、怪しからん、と言ひ出して、一齊にフィヒテへの攻撃を開始したのである。無論これは、反フィヒテ派の者達によるフィヒテ論文の意圖的な誤解であつたのだが、これらの人々に執拗に攻撃を受けるフィヒテに對して、ヴァイマール政府もフィヒテへの態度を硬化し始める。結局、この論爭事件が元で、フィヒテは一七九九年、イェーナ大學を辭職せねばならなくなつてしまつた。

 四、ベルリン時代

  フランス軍による支配
  『ドイツ國民に告ぐ』

 イェーナ大學を辞職したフィヒテは、一七九九年(三十七歳)の七月に、ベルリンへ赴いた。プロイセン政府がフィヒテに對して好意的であつた爲であらうか、フィヒテは非常時を除いて終生この地に暮らす事となつた。

 このベルリンには未だ大學が設立されてゐなかつたので、フィヒテは、『人間の使命』『封鎖商業國家論』等を出版すると共に、『現代觀の特徴』や『淨福な生への指教、人生論』などの多くの私的講演を行つた。かうした講演には、一般聽集はもとより、當時公使としてベルリンに在住し、後にオーストリア外相として手腕を奮つたメテルニヒを始めとして、各方面の著名な人々もはるばる聽きに來たといふ。そのくらゐフィヒテの講演は人氣があつた。一八〇五年には、エルランゲン大學に招かれ、そこで半年の間講義をし、殘りの半年をベルリンに於ける私講演に當ててゐた。

 しかし、ベルリンでも大問題に直面せねばならなくなつた。一八〇六年(四十四歳)にナポレオンの率ゐるフランスとプロイセンとの戰爭が勃發したのである。その年の十月に、フィヒテはフランス軍が迫つて來たとの報を聽いてベルリンを離れ、その後ケーニヒスベルク、メーメル、コペンハーゲンなどを轉々としなければならなかつた。フィヒテは、フランス軍の占領下に暮らす事を、何とか避けようとしたのである。そして、フランスが撤退した後、再びベルリンに戻らうと考へてゐたのであつた。

 ところが對外情勢は惡化する一方であつた。プロイセンは一八〇七年七月にフランスに敗退し、直ちに對佛屈辱的なるティルジット條約が結ばれた。プロイセンはこの條約によつて、莫大な戰費を支拂ひ切るまで、フランス軍に陷落されたベルリンを容易に取戻す事は出來なくなつたのである。フィヒテはそれを聽き、また夫人の説得もあつて、ベルリンに戻る決心をした。それは、絶對にフランスに屈伏してはならない、我らが祖國ドイツを何としてでも自分の手で守らねばならない、學者であるなら、占領下のベルリンへ戻り、そこで學問を以て國民を啓發し、ドイツを守らうといふ堅い意志を國民の中に生み出させる事こそ、我が身に與へられた本當の使命ではないか、さう考へたからではないだらうか。何としてでも祖國を守らねばならないといふ、激しい思ひがフィヒテをベルリンへ戻らせ、そしてその純粹で熱烈な祖國愛が占領下ベルリンに於ける一八〇七年から翌年まで行はれた、今もなほ讀む者の心を打つ不朽の大講演「ドイツ國民に告ぐ」を行はせたと言つても決して過言ではないであらう。