第四節 消息

   一、消息

   二、激鬪の生涯

 一、消息

  ベルリン大學創設と、總長の座
  所謂「解放戰爭」勃發
  夫人の病とフィヒテの最期

 一八一〇年、未だフランス占領下のプロイセン政府によつて、ベルリンに大學が創設された。當時の言語學者フンボルトが創設に功を果たしたこの大學に、フィヒテは哲學部の部長として任命され、さらに一八一一年、初代總長に選ばれた。フィヒテ四十九歳の時である。しかし、フィヒテ自身は當初から、自分のやうな者は總長の職に適してゐない、と考へてゐたらしく、一八一二年、學生の決鬪事件の處分について評議會と對立した事を切掛けに、自ら願ひを出して、總長を辭任した。

 一八一三年(五十一歳)、フランス軍のモスクワ敗退を見たプロイセン、ロシア、オーストリア同盟軍が、ナポレオン體制打倒の戰ひ、所謂「解放戰爭」を始める。フィヒテは自らこの戰爭への從軍を申し出るが、プロイセン政府はこの申し出を斷つた。以後フィヒテは大學での講義に尚も全力を注ぎ込む。一八一四年一月に、篤志看護婦として傷病者の看護をしてゐた妻、ヨハンナが、發疹チフスに感染し、危篤状態に陷つたその日も、フィヒテは大學の講義を休まなかつた。講義を終へて自宅に驅けつけると、ヨハンナは何とか危機を脱してゐたが、今度は熱心に講義と看病を續けて來たフィヒテ自身が夫人のチフスに感染し、倒れてしまつた。

 フィヒテの病状は急速に進んで行つた。息子ヘルマンは、時折、プロイセンと同盟軍の戰勝状況の新聞記事を、病牀のフィヒテに讀んで聽かせたといふ。

 そして一八一四年、一月二七日、ナポレオンの退位、そして悲願であつた祖國ドイツの統一をつひぞ眼にする事なく、哲學者フィヒテはその生涯を終へねばならなかつた。

 二、激鬪の生涯

 フィヒテの生涯を振返ると、まさに一時も休まる事のない、激鬪の生涯であつたと思はされる。フィヒテは常に鬪つて生きてきた。それは、他人に對して鬪ひを挑んだのではなく、寧ろ、自分は人とどのやうに付き合つて行くべきなのかを徹底的に問ひ正すといふ、自分自身との嚴しい鬪ひであつた。まだ幼き頃から始まつた澤山の書物との對話、ヴァークナー牧師、家庭教師時代における子供達、その親達、友人達、熱烈な戀愛によつて結ばれた妻ヨハンナ、大哲學者カント、大學における學生達、同僚、そして、ドイツ國民同胞、ドイツ國家、ゲルマン民族、敵對してゐたフランス、ナポレオン、さういふものとの付き合ひの中で自分は生きてゐる、されば、自分がそれらとどのやうにして付き合つて行くのが正しいのだらうか、さうフィヒテは問ひ續け、生きてきたのである。フィヒテにあつては、「自分は如何に生きるか」といふ大問題は、同時に「人と如何に生きるか」といふ切實な問題であつたのだと感じさせられる。

 「自」と「他」の問題を常に問ひ續けた哲學者フィヒテは享年五十二歳で逝つた。夫人は、その丁度五年後の一八一九年一月二九日に亡くなる。フィヒテ夫妻は、ベルリンのドローテン墓地に埋葬されてゐる。