第二節 講演「ドイツ國民に告ぐ」

 かうした自國(ドイツ)の滅亡に瀕した時局に對して、象牙の塔にとぢこもらうとはせず、ばらばらになりつつある祖國ドイツを結集すべく、學問によつて國民を啓蒙しようとしたのがフィヒテであつた。フィヒテは一八〇六年夏より『愛國心とその反對( Der Patriotismus und sein Gegenteil) 』といふ論文を執筆し、また一八〇七年十二月十三日から翌年の三月二十日までの毎日曜日、フランス軍が軍靴を響かすベルリンにおいて、計十四回に渡り、「ドイツ國民に告ぐ( Reden an die deutsche Nation )」といふ講演を行つたのである。

 この餘りにも有名なフィヒテの講演は、ベルリンのウンター・デン・リンデン通り沿ひにあるベルリン・科學アカデミーの古い円形ホールにおいてなされた。講演を豫告する公示には、「男女兩性が一緒の聽集に對して行はれる−通俗講義」の繼續であると書かれてゐたさうである。繼續であるといふのは、フィヒテがこの三年前の冬から翌年まで、同じくベルリン科學アカデミイにて「現代觀の大要( Grundzuege des gegenwaertigen Zeitalters ) 」と後に題する講演を行つてをり、今回の講演がその續きであるとしてゐたからであつた。

 まづフィヒテは、「現代觀の大要」の講演において、現代における人々がただ官能的利己を衝動として活動をするやうになつてしまつた事、そして官能的利己の衝動に基づいて行動する場合にしか自己を完全に發揮する事は出來ないものだと思ふやうになつてしまつた事を指摘したのであつた。

 さらにフィヒテは「ドイツ國民に告ぐ」において、かうして自己の利益のみを氣にする人ばかりになつてしまつたが故に、ドイツはあつと云ふ間にフランスによつて解體されたのだ、ドイツは今や「自己と自己の獨立とを失つて、遂に自滅の境に墜ちてゐる」(第一講 p.11)のだと語る。單にフランスの策略によつてドイツが滅するのではない。我々の利己心が國民精神を堕落させたが爲に、ドイツは他國の力に屈し、今正に滅びようとしてゐる。この状態から我々が再び蹶起するには、利己心に囚はれぬ、新しい世界を切り開いて行き、この新しい世界を發達せしめ、この新しい時代の内容を充實させて行くより他に途はない。「而して本講演の目的は、諸君にかくの如き世界の本質とその眞の所有者とを指示し、この新世界の活畫圖を諸君の眼前に示し、かかる世界を創造するの手段を敍述することである」( 第一講 p.13 )さうフィヒテは語つて行くのである。

 ドイツ人の本來持てる誇るべき國民精神、それが最早忘れ去られてしまつた現状においては、また新たなる方法で、それを見出さねばならない。今やドイツ人本來の姿を見出す新しい教育が全國民に施されなければならない。さうしなければ、人々は利己心をますます募らせ、つひにドイツは滅してしまふであらう。それだけは何とか喰ひ止めなければならないといふ激しい想ひがフィヒテを突き動かしたのである。何ら哲學的知識を持ち合はせてゐない聽集も、フィヒテの祖國を思ふ心に大いなる刺戟を受け、自分はこの情勢にあつて如何に生きたらよいのかといふ事を考へ始めたに違ひない。