第三節 フィヒテ講演の影響

 フィヒテの死後、ドイツは統一への道を着實に歩んで行くのであるが、その根抵には國民教育の普及があつたといふ事を忘れてはならない。フィヒテの講演に共鳴をうけたヴィルヘルム一世(プロイセン王、ドイツ統一後初代カイザーとなる)は、文相を引き連れて、山向かうのスイスへ向つた。ヴィルヘルム一世は、他ならぬ、フィヒテが國民教育の實際の方法の手掛りとして取り上げたペスタロッチを訪ねたのであつた。そして、その教育を參觀した後、ドイツにおいて猛烈な勢ひで教育普及を實現したのである。

 一八七〇−七一年に掛けての普佛戰爭にてプロイセンは勝利を重ね、一八七一年、パリ包圍中、ヴェルサイユ宮殿における對フランス假講和の際に、ドイツ帝國(第二帝國)の成立を宣言した。つひにドイツは統一したのである。この時、フランス軍に壓勝したプロイセン軍の将軍モルトケは國民の大歡迎に應へて、「余の手柄ではない、ドイツの小學校の先生方のおかげである」と語つたさうである。かつてフィヒテが幼少の頃、ドイツの初等教育は、アルファベットがやうやく書けるといつた教師が存在してゐるやうな状態であつたといふ。それを考へ併せてモルトケの言葉を聽くと、明らかにドイツの教育が樣變はりして行つたといふ事の一端を窺ふ事が出來る。

 かうして、フィヒテの言葉は朽ち果てず、共感を呼び、その言葉に突き動かされた者がまた新たに人を突き動かし、そして利己に陷つてゐたドイツ國民に繋がりが生まれ、國が動いたのである。フィヒテの肉體はドイツ統一の前に失せてしまつたが、その魂は生き續けたのであつた。

 『ドイツ國民に告ぐ』は、講演の終はつた直後の一八〇八年にベルリンで出版された。その序文に曰く、話すべき事は全て講演の中で話してしまつたから、改めて話す事などは何もない、と。正にフィヒテの思ひの丈がこの書物の中にあり、その行間漲るフィヒテの激しく力強い精神が、百八十五年も後の他國に生きる我々をも刺戟するのである。