あとがき その一

 フィヒテの本は最近殆ど讀まれないやうである。フィヒテを讀みたいと思ひ、目録を開いてみても一向に書名が現はれなかつたので、勝手に色々調べてゐるうちに、邦譯されたものの殆どが戰前のものである事を知つた。當初はフィヒテの文章が難解である爲に讀まれないのかかとも思つたが、どうもさうではないらしい。確かにフィヒテは難しいが、戰前には多くの著書が邦譯されてゐたのである。といふ事は、フィヒテの哲學が戰後の風潮に合はないが故に、讀まれなくなくなつたとも考へられる。今回『ドイツ國民に告ぐ』を精讀してゐて、特にその事を感じた。

 筆者は、所謂戰後の日本の風潮に乘つて生きて行くのではなく、フィヒテの生き方に少しでも近づいて生きて行きたいと思つてゐる。我國の現状を考へてゐると、フィヒテの提唱したやうな眞の國民教育をなさねば、日本といふ國は滅亡し兼ねないのではないか、といふ不安に驅られる。それはまだ不安に驅られてゐるといふだけで、結論には至つてをらず、本稿でもそこまで論は進められなかつた。我國の現状をどう考へたらよいのか、そしてどう對して行くのが自分の生き方として正しいのか、といふ大きな問ひを、自らの宿題として考へて行きたい。

 なほ、第一章のフィヒテの生涯については、福吉勝男著「フィヒテ」(平成二年 清水書院刊)を、第二章の歴史的背景については、全国歴史教育研究協議会編「世界史用語集」(昭和五十八年 山川出版社刊)を特に參照させて頂いた。他の文獻については、讀んでも拾ひ讀み程度であり、特に記すまでもないと思ふので、記載は控へさせて頂く事にした。

平成四年十二月記す