神話についての對話

 對話は、當時の知識人の一人であるリュシアスから戀愛についての話を聽いて興奮してゐるパイドロスが、町中でソクラテスとばったりと出會す處から始る。ソクラテスはパイドロスの姿を見て、ははあ、何か話したがってゐるのだな、と勘づき、勿體ぶってゐるパイドロスに、是非話を聽かせてくれと、勸める。二人は夏の暑い盛りに、イリソス川に足を浸しながら、背の高いプラタナスの木の下まで歩いて行く。

 そこでパイドロスは、北風の神(ボレアス)がアテナイのお姫樣(オレイテュイア)をさらって行く神話の舞臺は、確かこの邊でせう、ところでソクラテス、どうか本當の處を打明けて欲しい、貴方はこの話を本當にあった事だと思ひますか、と尋ねる。

 このパイドロスの問ひ掛けに、ソクラテスは、かう應へる。

 −アテナイの知識人達が言ふやうに、お姫様が川の邊にゐた時、たまたま強い風が吹いてきて、お姫樣を岩から川へ落としたのだといふ風に考へられる、と言へば、きっと君は安心することだらう。だが、本當に君はそれで安心するのか。考へてもみたまへ、かうした合理的解釋は當節知識人の流行だが、合理的解釋が正しいと解るには、他の膨大な數の神話を、全て何かの偶發的事件にこじつけて解決してこそ、安心する資格がある。そんな悠長なこじつけをしてゐる暇など、僕にはないよ。デルポイの神殿には「汝自身を知れ」と刻まれてゐるが、僕は未だにその事が解らず、考へ續けてゐる。だから神話については、傳へられるままに信じることにしてゐる。デルポイが僕に命じてゐるのは、僕は神話に出てくる怪物のやうな者なのか、それよりはもう少しましな生物なのか、それとも神々の姿に近い者なのかを知ることなのだからね。おいおい、處で君が僕を案内しようとした所とは、ここではないのか。−

 何氣ない會話のやうであるが、簡單に讀み飛ばすことの出來ない件である。ここに、知的解釋に戯れる知識人とは一線を畫すソクラテスの姿がある。ソクラテスは合理的解釋を非としてゐるのではない。この話は本當だと思ひますか、とのパイドロスの問ひには、本當な譯がない、何かもっと納得の行く眞實がある筈だ、それを聞きたいといふ、旺盛な知識欲が感じられる。ソクラテスは、君は本氣で神話そのものに取組んでなどゐないのではないかと、パイドロスを根底から問ふのである。

 ソクラテスは、この對話篇の終はりにも、パイドロスに對して言ふ。

 −神々の最初の預言は、一本のかしはの木が告げたのださうで、その當時の人々は、かしはの木の言葉でも、岩の言ふことでも、ただそれが眞實を傳へるものでありさへすれば、それを聞いて素朴に滿足したものだ。しかし、君には、語り手が誰であるとか、どこの國の人であるかといったやうな事が重大な問題であらう。なぜなら君は、本當にその預言がその通りかどうかといふ、ただそのことをだけを考へるのではないのだから。−

 ソクラテスの炯眼は、パイドロスを見抜く。君は、きっと、自分自身について、神話を素朴に信じてゐた人々より、智慧があると思ってゐる。神話など、誰かが何らかの目的で勝手に創り出したものであり、その目的如何によっては、崇める必要などないという風に安穏と思ってゐる。かくして、神話は、我々に何を語ってゐるのかといふ根本の問題から、果たして信ずるに足る話なのかどうかといふ問題へと置換へられてしまふ。よく考へてご覧、奇怪な神話など信じられぬと君は思ふだらうが、素朴に神話を信じた當時の人々は、その奇怪な神話に面と向き合って信じてゐる分、君より眞劍に智慧を得ようとしてゐたとは言へまいか。さうソクラテスは、言外に語ってゐるように、私は感ずる。

 何年も前に、日本の學者が火の玉發生のメカニズムについての研究を發表した。それは大變な發見かと思ふが、一つだけ氣に入らない主張があった。それは、この研究により、火の玉は自然条件による偶發性のものであり、靈魂などといふものとは何の關係もないといふことが解明された、とする主張である。墓地では毎日火の玉が飛んでゐて、誰もが立ち寄りさへすればそれを確認できる、と言ふのであれば、「火の玉は靈魂でも何でもない。自然現象だ」と言ひ切れるであらう。しかし、實際はさうではない。我々が火の玉について本當に知りたいのは、普段眼にすることなどない火の玉が、なぜ自分の目の前に現れたのだらうか、これは自分に何を傳へようとしてゐるのだらうか、といふ事ではあるまいか。そこに、偶發性によるものであるから、火の玉には何の意味もないといふ説明では、應へにならないのである。火の玉發生に關する自然条件の解明よりも、なぜ、その条件が整ったのかについての解明こそがなされなければならないのである。

 しかし、科學は、偶然について、それ以上の意味は問はないやうである。かくかくの条件が整えば、かくかくの現象が現れる。それさへ解れば、それ以上を問はないやうである。問はないだけではなく、問ふ者を智慧なき者とし、時には非難さへする。それは、本當に火の玉、靈魂に向き合ってゐると言へるのだらうか。火の玉を見て、佛壇に手を合はせる人より智慧があると言へるのだらうか。

 自分自身の中にすら、どうにも理解し難いものが澤山あるにも關らず、一度自分から離れた問題については、合理的解釋に安穏として知者を氣取らうとする。「汝自身を知れ」といふ態度のソクラテスは、無知なる知者にとって、今も厄介な存在であらうと思ふ。